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ストラテラ25mgを飲んで8日までの感想などなど

今回は僕と同じ人たちに向けて書こうと思います。

 

実を言うと僕はこの薬を飲むのが最初はとても怖かったです。

何故かと言うとそれが自分のいいところを消してしまうかもしれないかと思ったからです。

僕は処方されてから3日飲めませんでした。ですが、目的論者な僕は、飲まないってことは変わりたくないってことだな?などと自分を煽って飲んでみることに。そしたら

 

世界が変わりました。

 

比喩などではなく本当に。

飲んでから気がついたのですが、僕の場合、思考の多動性のようなものが強く、自生内言が酷かったみたいで、飲んだ途端ピタッと止まって静寂が訪れました。

常に思考の嵐、渦が巻いていてコントロール出来ずに災害を頭の中に飼っていたような感覚です。

「あ、いまおれなんも考えてない」って思えたのが一番ビックリしました。

 

そのおかげか、前までかってに頭がマイナスな方向に考え出し、止まらずに死にたいと思うまで突っ走ることもなくなり、鬱が治りました。

他にも、ねれない時によく言われていた、目をつぶっていれば寝れるというのも経験しました。まえまではひたすら頭が回転して寝れたかったからです。

頭のなかが静かになったので基本的なこと(片付ける、などなど)に頭を使えるようになり、そういったミスがなくなった(気がする)

 

そこら辺がいいことで、

悪いところ(一概に悪いとはいえない)といえば、

飲んで数日は脳の回転が止まったかのような感覚で、なにも考えず、ただただ平穏な日々を過ごしたりしました。

最初の方は本当に頭の中の声がなくなったので考えることは愚か、文を読むことも出来ず、文を書くなんてもってのほかで、ひたすらバカになったような感じがしてました。(ツイートすらできない)

過集中も最初の方は全く起こりませんでした。

 

副作用としては

少しの吐き気(ほんとに少しだから心配しないで)、満腹になると幸せだったのが気持ち悪くなる、食欲不振、三大欲求の減衰、味盲、などなど。

いままでは脳内での会話がカロリーをつかっててその分食欲がなくなったのかなと思います。(前までニートでもお腹がものすごく空き、目一杯食べても太らなかった)

 

副作用は治るかはわからないですが、いいところと悪いところは八日目になってやっと振り切ってたところがお互いのバランスを取り始めた気がします。(なのでこの数時間でちょっと過集中気味になりながら三本記事をかいた)

 

なのでADHDの人は飲んで見ることをおすすめします。

 

推敲をしてないため。乱雑な文です。自由帳を覗き見たと思って許してください。

ニートが障害者だと気づくまで

前回までで、僕がニートになるまでを書きました。

今回はニートになってからです。

 

ニートになってからも基本的情報収集は怠らずにいろいろなニュースなどをザルのように受け流してたのですが、そんなある日、DMMアカデミーをみつけ、持ち前の行動力で六本木のとあるbarまで亀山会長に直談判しに行くのですが、17歳の壁は破れずあえなく敗退。自分で生きて行けるようになりなとありがたい言葉を頂き、帰路に着く。

その後から昼夜逆転し、自力でなおし、鬱になり基本死にたくなるといった生活を繰り返していたのですが、ふと子供の頃にグレー判定されたADHDが気になり、診断することに。

結果は見事ADHD

診断してなにが良かったかというと、自分を責めなくて良くなること。
これもADHDだからか!っておもって開き直れることが多くなりました。
ただ、開き直ってるだけだとただのクズなのでそれをもとに改善策を練って行く必要があります。

たとえば、薬を飲む。これだけで僕は随分ましになりました。

それに受験勉強やプログラミング等といったことも基本的に独学でしていたのですが、これは僕の理解力に問題があり、理解すれば他の人よりも使えるといった性質の真反対をやっていたのでこれをなくす。などです。

こういった内省がしやすくなったのはとても大きいです。

また今度書くかもしれませんが薬を飲んでから鬱もなくなりました。

次回があるかどうかはわかりませんが、あるとしたらニートの障害者が自分を知ってからになると思います。お楽しみに。

推敲をしてないため。乱雑な文です。自由帳を覗き見たと思って許してください。

高校生が不登校ので引きこもりニートになるため

こんにちは。

お久しぶりです。

とらとです。

このブログを書くのは億劫だったのですが、他にも書きたいことあり、このブログを書かずに他のブログを書くのは逃げでしかないと思い、書き始めた次第です。
⚠このブログにエモさはありません。⚠
前回までに書いたブログは読み返したくないので読んでません。整合性が取れてないことはないとは思いますが、同じこと書いてる場合があります。ご了承ください。

 

さて、前回までは僕の高校に入るまでのお話しを書いたと思います。高校に入ってからの僕は、中学校の頃の経験から 、代表委員にはいるのですが、僕の高校は大学のようで、制服はなく、クラス替えもなく、時間割は個人個人で違い、校歌もない。校則のようなものがあるだけで、校則はない学校でした。そして先生はほとんど干渉してこず、学校の方針としては自主自律。こんな学校で代表委員のしごとなど、雑用しかなく、物足りなかった僕は、生徒会に入ります。
部活動は中学で目一杯楽しんだ上、家庭環境が悪かったため運動系の部活には入らず、緩めの化学工学部に入り、焼肉屋さんのキッチンでバイトを始めました。

ここから夏までは、ごく一般的な高校生活をしていたのですが、夏に入る辺りで2つの大きな物が出てきます。
一つはGoogleJapan主催の高校生による研究発表science jam
二つ目はかながわハイスクール議会

science jamはGoogleの慈善事業の一環で、高校生の視点で世界を変えられるような研究を後押しする。といったようなことを目標に行った研究イベントで、僕は発表が科学未来館で行われることや、キックオフキャンプが高エネルギー加速器研究機構で行われること、あわよくばGoogle本社にいけることなどに目がくらみ、それに学校の先輩と応募しました。ですが応募してきた中にはガチの高専の方々や、SSHに認定されてる方々ばかりであえなく敗退。ですが、ここで得たものはとても大きく、今後の僕の価値観を明確なものにしてくれます。
キックオフキャンプにはたくさんの大人が関わっていました。googlerの方々はもちろんのこと、未来館のscience communicator、JAXAのエンジニアの方、東北大学の教授、などなど。この方々に会うまでは、親の影響なのかもしれませんが、僕の世界はとても狭く、社会人というものは、日々の生活の中で生気を吸われ、ゾンビのように生きる物だと思っていました。ですが彼らは違いました。未来に目を輝かせ、新しいテクノロジーにウキウキし、大人なのに子供よりも楽しんでいたのです。彼らとの出会いで僕の価値観は変わりました。
とても感謝してます。

その価値観を胸にいだき、挑んだのが、かながわハイスクール議会でした。
かながわハイスクール議会とは、神奈川の高校生が神奈川良くするためにはどうすればいいか考えようぜ!といったような議会で、政治、教育、観光などの社会問題にまつわる8つの委員会があり、その委員会で出たまとめた提言書を黒岩県知事に提言するのですが、僕は父が外国人で日本の教育に疑問が沢山あったため、教育委員会に入り、委員長になり、知事に高校生版の教育委員会なるものを作って欲しいと提言したところ、すんなりOKをもらい、高校生版教育委員会が設置されることが決まりました。

このあたりで勉強する意味などがわからなくなり、塾をサボりはじめ、やめます。

こういった感じで一年生の夏から秋が終わります。

冬はすることがなくなり、だれでも東大に受かるといった趣旨の本に感化され受験勉強を始めるのですが、塾にサボって行かなくなった塾にもう一回行かせてもらえるはずもなく、独学でやり、バイトも辞めました。

ですが、独学だと僕の理解力、ワーキングメモリーの低さなどが原因で、あえなく挫折し、学校には行くものの、家では水曜どうでしょうを制覇するなどといったトテモ有意義な冬を終えます。

冬が終わる頃に忘れかけていた高校生版教育委員会から連絡があり、創設者として1期のメンバーになったほしいと言われて茶番のような第一回を終えます。

そのあたりで水曜どうでしょうもなくなっていた僕は、虫けらのように毎日を過ごします。

そして3月の最後にお父さんにこのままこういう生活をしてたら、生きてても死んでても同じじゃない?と言われます。
それは僕の一番なりたくなかった人種。是が非でも回避しようと活動し始めます。

最初は江ノ島に友達と行く。などとかわいいものでしたが、だんだんエスカレートし、
厚切りジェイソンと教育と起業と日本の未来について焼肉を食べながら話したり、

毎週のように渋谷のスタートアップ界隈に出向くようになりました。そしてそこの会社でGWのインターンをし始めます。そこまでは良かったのですが、(よかったのか?)

その会社はベンチャーキャピタルの会社で、スタートアップに興味ある人たちを集めるようなイベントをたくさんしていて、僕はその会場スタッフをしていました。

そんななか、教育とITで日本の未来を変える仲間を募集!といったピッチをする人が現れました。僕は前述の通り教育に興味があったのでビビッときてその人について行くことを決めます。本当はここでもっとちゃんとしたスタートアップを選んでいたらもう少し安泰だったのかもしれませんが、僕はその人についていくことに決めました。

そしてその人の助言の通り、学校にも行かなくなり、その会社は利益を出していないにもかかわらすシード期を飛ばす為に投資を受けていなかったので、後で返す約束で僕は貯金の50万円をこの会社に貸し、生活費などをその50万円から出して生きていました。

ですがその会社でさせてもらったことといえばビラ配りや、ビラを設置させてもらえる会社を探したいりすること。プログラミング勉強を教えてもらえると言ってたのですが、蓋を開けて見ればggrksとしか言われない。そもそもその会社は、代表取締役以外の人を学生(無給)でつかっていたのでひどい会社だったとおもいます。
ビラ配りの他にさせてもらったことといえば、家庭教師業だったので僕の友達をネズミ講のように紹介すること。これが原因で僕のこの会社への信仰心は薄れ始めます。

もともと本社が関西にあったにもかかわらず僕は最初にビビっと来た人と共に東京に住んでいたのですが、僕の貯金がついに底をつきます。
そこで僕は、もうだめだとわかり、ビビッと来た人にもう限界なので、やめると時に返すと言ってたお金を返してくださいといったのですが、その人はそんな約束をした覚えはない。録音でもとってるのか?と逆ギレ。代表に聞いてみてもそんなことは初耳だとのこと。後々気づいたのですが、会社へ貸したはずのお金は貸したことにはなっておらず、僕はただただ50万円をドブに捨てただけ。その人が個人的につかったお金(恋人とのペアリング、恋人に会いに行くための交通費、クレジットカードの未払いなど)は返してもらえることになって、1月から五千円ずつ返してもらえるはずだったのですが、入金は当たり前の如くなかった。

そして家庭から自立しようとしたのが逆に親にまた迷惑をかけることに。

今の僕はただの不登校ニートです。

 

ですが、この二年生の経験は全然悔いてません。お金がなくなったことは最初のころこそ絶望していましたが、今では帰って来てほしいなぐらいになるくらいまでマインドセット出来ました。それに会社の人たちは基本的にいい人たちで、そのせいで早めにやめることが出来ませんでした。それに関西から関東に帰る時にヒッチハイクをして警察に捕まったことなどもこの道を選ばなかったら経験できていなかったと思います。(面白いので今度話そっかな)

失敗だったことといえばもっと自分の石橋を叩いておけばよかったということだと思います。

ただ、自分の行動力はこれを期に自信が着いたので良かったです。

その他にも、基本していたことはどうやったら自分の成長につながるかを考えて行っていたので無駄なことはなかったと思います。

そして基本、こわいものはなくなりました。これも大きな強みだと思います。

次回があるとしたらニートになってからの僕です。お楽しみに。

 

推敲をしてないため。乱雑な文です。自由帳を覗き見たとおもって許してください。

 

だれにも本当は読んでほしくないけど本当はよんでほしいブログ

さて、第2回です。

前回までは僕の幼少期から中学に入る前までをかきました。

これは中学に入ってからのお話です。

中学校に入ってから僕は当たり前のようにバスケ部にみんなと入りました。
そして先輩、先生、と出会い、一人だけ新しい子が同い年でバスケ部に入りました。

それと同時に、小学生のままではだめだと悟った僕は、なにを血迷ったか中央委員会(代表委員的なもの)に入ります。生活指導をする委員会はあったものの、中央委員会はクラスをまとめる、良くすると言った仕事があったため(今思えば自分たちでかってに作っていたのかも)生活指導から雰囲気作りまで一手に任されました。そこに入った僕は否が応でも模範生にならなくてはならなく、その階段を上って行きました。

ですがそれまで模範生の反面生徒のような小学生だった僕は、なかなか仕事がデキず、名だけの中央委員として嫌われ、前期で解任されます。
後期になりクラスの選挙で負けた僕なのですが、中央だった子が生徒会に当選し、中央に舞い戻ります。ですが、そこでも記憶に残ることはあまりありません。

というのも、その頃は部活に熱中していたからです。
その頃の先生は神戸先生といい学校でぶっちぎりに厳しく恐いおばさまの先生だったからです。
オーストラリアで培った年上に好かれる才能を遺憾なく発揮した僕は、先生と先輩に好かれて、三年生が引退する頃に試合に出始めます。
そしてそこそこ模範生バスケもそこそこできる勉強も全く出来ないわけではない子として一年生を終わります。

そして中学生活で一番濃い学年が始まります。
二年生。まず、入ったクラスがすごく、二十人弱いた女子バレー部が八クラスもあるなか五人固まっていました。女子が群れるといいことない(偏見)上に、五人もバレー部が集まるということはなかなかクラスをよくするという仕事がある僕にはなかなか厳しいものがありました。

案の定、クラスの状態はよくなく、諦めかけていた私だったのですが、一年生の頃不登校だった子に、お前がやらなきゃだれがやるんだよ、おれがやるから邪魔だと言われ、自分に火がつきクラスを良くして行こうと決意をいだきました。

これが夏の終わり頃です。

そっからというもの、委員会に注力し、クラス、強いては学年を良くしようと奮闘しました。その中で友達を注意する中で怒り過ぎたりしてクラスの女子全員に嫌われたりもしましたが、自分のクラスを良くしようと頑張り、学年の長として泣きながら相談してくる委員会のメンバーのサポートをしました。そんな頑張りが実ってか、クラス、学年は最高のものになり、三年の体育祭などではこんな学年見たことないと校長やら年配の先生に言わしめるまでになります。

二年生で怒り過ぎ起こることの意味はなにもないと気づかせてくれ、他にも大切なことを教えてくれた先生の名前(sin)と人間の罪としての(wrath)これらを忘れれないようにとアカウント命をwrath__sinにしています。

部活のことに話を戻すと、二年のはじめの頃から僕たちは部活の先生(神戸先生)が居なくなることに気づき始めます。その頃は僕達を陸上部並に走らせたり土砂降りの中走らせ、凍えていると、そんなんで震えるなら帰れば?などと理不尽な先生が居なくなることが嬉しかったのですが、後のバカだったと気づきます。なぜなら二年のはじめに、新しくバスケを教えれる先生が赴任して来て、夏の終わりに先輩が引退したら引き継ぐというからです。先輩が引退するまで僕たちは神戸先生に理不尽なことを言われようと耐えて、楽しくバスケをしていました。ですが、終わりはくるもので、僕が最後にパスしたボールを先輩はうつことなく最後の試合が終わりました。今でも覚えています。

これが夏の終わり頃です。

それからと言うもの神戸先生は居なくなりはじめの頃こそ新しい先生になりました。
ただ、その先生は教えてくれもせず、どうすればいいんですかと聞いてもお前たちのやる気がないからだ、坊主にしろ。みたいなことをいい坊主にさせた挙句、ptaから文句を言われれば言ってないと責任逃れ。ずっと神戸先生に育てられた僕のバスケに対する熱はこっから徐々に冷めていきます。ですがそれと同時に委員会が楽しくなって来たので委員会に熱を入れ始めていきます。

色々ありながらも濃い中学生生活を送っていたのですが、最後にものすごく濃いものが
襲いかかって来ます。

ダンと母の離婚です。

これは僕の中で大きな物を占めます。
前回の父とは一緒の家にいながらもほとんど関わった記憶がなかったので大丈夫でしたが、これは確実に僕の何かを壊し、僕を閉ざしました。

前のブログで母の酒のせいだったとおもしろおかしく書いてますが、色々原因はあったと思います。

父は日本にきてから小学校低学年くらいまで一人だけ友達がいましたがそのたった一人の友達は父をおいてハワイに行ってしまいした。
それに母は夜勤、父は朝早くから夜遅くまで。ここでもスレ違いが起こり、夫婦の愛は消えました。
母と父の財布は別だったので母はたまに働き、酒毎日のようにワインを1瓶飲み、私は働いてるからと口実をつけ、家事をしませんでした。もちろん父が代わりにしてました。そして母は、飲んで帰ってこれないことは日常茶飯事、その世話をしているのは父、父はそんな母に見かねて次やったら別れるからと念を押していて、その時はもう飲まないと母は言いますが、また酒に溺れる日々。
そんな日常に終わりを迎えたのが塾に酔っ払いながら入ってきたことでした。
僕は父にこの相談をしました
そしたらもう別れるといわれました
この時ぼくは一生懸命に父に謝りました
人生の大事な十年を無駄にさせてしまったこと
辛い思いをさせてしまったこと
母の酒癖を治せなかったこと
ボロボロに泣きながらあやまりました

そしたら父もボロボロに泣きながら

「いいんだよお前があやまることなんてないよ
お前と過ごせた十年はおれの宝物だったよ」

父の涙を見たのは二回目でした。

このことで母と喧嘩することがありますが、母はお前が父にあの時密告しなかったらこんなことにはならなかった。お前のせいで別れたんだって今でも言われますが、あの言葉のおかげで自分を責めずに生きて行くことが出来ています。
母は別れた理由の一つに父が薬物をやっとことをあげていますが、母の虚言だと思いますし、一人で十年間がんばって来た父なら薬物をしていてもおかしくないですし、僕はそんな父を本当に尊敬しています。

別れたあとも僕のためだけに母が夜勤の時は家に来てくれていましたし、早いときだと6時から夜の10時まで家のローンや色々なものの為に働いていて、母が家事をしないので父が家事をし睡眠時間3時間とかとがんばっていて、駅の階段で意識を失い、睾丸を潰すほどの怪我をしたこともありました。

本当に感謝しかないです。

そして三年生になります。

この頃から心を閉じていきます。

三年生になり、部活に新しい先生が来ましたが、お前らのせいで可愛い愛娘との時間が潰れてんだぞというようなあの先生のままだったので、僕は部活に熱を注げないままでした。
委員会も、クラスも、学年もみんながしっかりしているので委員長の僕の出番はなく、
クラスでも一人になっていきます。やるせなさを感じて修学旅行の実行委員長などもしましたが、みんなが楽しめてる修学旅行は楽しめず、最後の試合に負け、チームメイトがないてる中、僕一人だけ泣けなかったことがありました。泣けなかったことのほうが悲しかったです。

それからは受験に入り、家に居場所もなかったので塾に入り浸ります。
興味のないことは全く出来ないたちだったので、大好きな数学と理科だけを勉強し、
併願も掛けてもらえなかったのでレベルの低い学校に難なく入学する資格を得ます。
合格した時の喜びも一切ありませんでした。

そして卒業式。何かを残したいと学年の指揮に立候補し何故か当選し、合唱で学年のほとんどを泣かせるも自分だけ泣けず、さらに悲しみにくれる。

そして卒業。

そして波乱の高校へ。。。

 

 

読まなくてよし、ただ、内山コーチを知ってる人には読んでほしいし、深く関わったことがある人にも読んでほしい。(解説.はじめのうちは自分を忘れないうちに書いおこうと思ってただ連連書いてたけどふと見たら知ってほしいことがあったので。)

連投のとらとです。

はじめの文で少しだけ自分の歴史のようなものを書いたのですが、あれだとテストしたらみんな満点取れてしまいそうなのでこれから、何回かに分けて自分史を書こうかと思います。とらと史を専攻される方はがんばってください。

第一回目の授業は生まれてから中学に入るまでです。

僕は1999年12月16日に神奈川のはずれで、城ヶ崎というところでお土産物屋を営んでいるところの長男と、新卒で入った会社をすぐに辞めて死んだ友達の家に居候していた母が、オーストラリアで出会い、母が言うに父に仕組まれ、僕が生まれました。

なにはともあれ写真を見たり話を聞く限り、デキてしまった我が子を母は自分の息子に溺れるが如く愛していたみたいです。

しかし、父はどうかと言うと朝早くから夜遅くまで働いていて、母とはすれ違って言ったみたいです。僕は朝に弱く夜は早く寝かされていたので父との家での思い出は家族あるまじきことに全くありません。

そんな悲しい生活に耐えかねたのか、この頃から母は僕をつれて海外に行くようになりました。
二歳からオーストラリア、シンガポール、カナダに一ヶ月単位で数回父をおいて行ってたみたいです。

前後関係は覚えていないのですが、
そんな中、僕が四歳のとき、母の子宮に腫瘍が見つかり、死ぬならオーストラリアでとのことで父をおいてオーストラリアに。その頃オーストラリアの反対側に居たイギリス人のダンという23,4の青年が母が死ぬかもしれないとのことを聞きバイクで来てくれました。反対側と言ったら日本二個分の距離なので、すごいものです。

その後母はオーストラリアで検査をしたところ悪性の腫瘍ではないことがわかり、手術をし、無事助かり、その後せっかく来てくれたダンと九ヶ月ほど過ごすことになります。

ここで出てきたダンについてお話すると、この人はイギリスの大学を出て、世界を旅していた後に僕の父になる人です。母がいないと寝れなかった僕、父でも寝かせつけられなかった僕を唯一寝かせつけられた人です。そのことがきっかけとなり、母はこの人だと決めたみたいです。

このオーストラリアでの九ヶ月はとても濃く、僕の幼少期の思い出はほとんどここです。アルファベットも知らないような子供が現地の保育園に打ち込まれたのもいい経験ですし、今でも個人的に連絡を取ってる友達も居て、その人は当時大学生だったのですが、今では三十をすぎ、結婚し、子供をもっています。とても感慨深いです。

さて、話は自分史に戻ります。ワーホリのビザが来て帰らなくてはならなくなった我々。母の中であることが芽生えます。デキ婚を仕組まれ日本においていく程の父、
自分が死にそうな時、日本2個分を走破し、会いに来てくれたイケメンな外国人の新しい彼氏。しかも息子の僕と相性バツグン。母はダンを選びました。前の文で母のクズっぷりに引きましたなどと書いていますが、この選択をしてくれた母に感謝しています。

そしてダンを日本につれて帰り、父とは離婚をし、僕は、小学校に入り、母とダンはめでたく結婚をしました。ダンは旅をしたりいろいろな本を読んだりしていたので知識が豊富で旅での面白い話だとか科学の面白い話を沢山してくれました。それに、ダンは僕が母に理不尽な暴力をした時も守ってくれたり、だめなところはちゃんと叱ってくれたりなど、僕を作ったものの半分はダンだったと言っても過言ではありません。それほど感謝しています。

小学校に入ってから僕はダンと母が共働きだったため学童保育に入れられ、友達とも遊ぶことはないまま学童にある本や漫画を読み漁ることに熱中しました。家に帰るのはいつも七時などで、そっから八時までには寝なくてはいけなかったので、ごはんを食べるのが遅かった僕は、急いでごはんを食べ寝る支度をし、寝ていました。

以前はいつも遊んでくれていたダンはこの頃から、食べるものも僕らとかえ、日本のテレビを見ることもなかったので食卓で一緒にごはんを食べることはなくなり、PC室にこもるようになりました。

三年生あたりから新しい住まいを探すためや母の買い物などに付き合わされ、僕がダンと遊べることはなく

四年生になる頃には学童を追い出され、本当の意味での一人に、このころから暇な時になにをしてたわからないのですが、バスケを女の子の友達に誘われ、はじめました。

そこのミニバスチームは拠点が隣の小学校にあり、弱いながらもとても、コーチの面々には気に入られ、唯一仲の良かった友達たちと楽しい時間を過ごしていました。男子がみんなAVを見てることをばらしてみんなに嫌われたこともあったし、みんな他の学校だったから悲しい思いをした時もあったけど、みんな優しく、みんなのことが大好きでした。。今でも大好きですし、親友だとかってに思ってます。毎年のようにやっていたバーベキューや、合宿の思い出は今でも忘れようにも忘れられません。

バスケの友達しかいなかったというのも理由があります。
それまで母に暴力の限りを振るわれていた僕は、学校で性格がねじ曲がっていっていたからです。母との口喧嘩などで鍛えられ口の立った僕は嫌いだった女の子の友達に正論だけを言って泣かせ、尚且つ悪口ではなく正論だけで泣かせていた自分に酔い、一日に一回は泣かせてたと思います。
それも六年生になるとネジ切れるほど曲がり、他の人がゲームをして授業妨害したり、悪口を言ったりハブったりして友達をいじめるて、学級を崩壊させる中、私はといえば、迷惑にならないからいいだろと授業の白昼堂々ハリーポッターを読んだり嫌いな友達に暴力を振られ、家で散々暴力を振るわれていた事と、人にやられて嫌なことをするなという正義を掲げ、おれはいつも振るわれてるから当たり前じゃないの?とふざけ倒したことを抜かし、しかもお前人にやられて嫌なことするなって習って暴力振るってるんだったらお前もやられていいだなとサイコパスみたいな事を言い、人に暴力を振るい裁判沙汰の一歩手前まで行ってしまったりしたこともありました。それでも守ってくれた父に感謝してます。

あともう一つ記憶に残ってるといえば初めて見たお父さんの涙です小学校六年生のときに一度もあったことはないおじいちゃんがイギリスで死にました。心臓発作だったみたいです。急に死んでしまったので飛行機代などは、馬鹿みたいに高かったみたいですが、そんなことは関係なく、葬式には間に合わなかったのですが、即刻イギリスに飛びました。イギリスを少しだけ楽しんだあと僕たちはおじいちゃんのお墓に行きました。
本当にイギリスって感じの町にイギリスって感じの墓で、そこの前後の記憶はないのですが、父が嗚咽を吐きながら泣きました。僕らは遠くからそんな父を見守ることしかできなかったのですが、初めて父の涙を見ました。これはとても印象的だったので書かせてください。

そんなこんなで小学校生活の後半は楽しく過ごせました。

続く。

後日加筆修正します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハイビスカスなブログ

皆様、お久しぶりです

 

一年ぶりくらいですかね。このブログを書くのは。

つい最近、このブログを僕の数少ない友人が読んでることに気づきました。その中でもくだらないことをツイートしていたら盟友にお前のブログ読んでるから続きを書いてほしいとのことを言われました。正直とっっってもうれしかったです。人の所属感、承認欲求による幸福感の感じ方はこの上ないなと思った次第であります。

さて、文はペルソナをしっかり策定したほうが刺さると思うので、ブログを書いてくれと言ってくれそうな、今アメリカで一人銀河鉄道999のようなレールの上を走っている盟友にし、書いて行こうかと思います。

このブログの行末は見えません。ただ、少しだけ書いたのでローンチしてみようと思います。

書くきっかけをくれてありがとう。忘れないでくれてありがとう。生きる意味を教えてくれてありがとう。






(後日加筆。やっとこのふざけたタイトルの意味がわかりましたかね。そうです。くさすぎます。でもこの臭さに寄ってくるハエもいると思います。そんなハエたちに向けて。がんばって書いて生きます。)

僕の夢

どうも、とらとです。

 

突然ですがみなさんは夢をもっていますか?

これは学生にだけに聞いている訳ではなく、これを読んでいる方全員に向けて問いています。

 

僕の人生の大きな夢は死んだ魚の目のような人にならない、人生をたのしむです。

 

何でこのような夢をもっているのかというと、僕は目標など言ったことをコロコロ変えてしまうからで、もしかしたら明日には死んだ魚の目になりたい!死んだ魚の目になるんだ!と豪語してるかもしれません。(うそですあり得ません)

つい最近までは「東大にいく!」っていってました。(ほんとです)

ですが、こんなbb8(スターウォーズ)みたいにコロコロ言ってる僕でもこの夢だけは

絶対に変わらないです。(多分)

 

そして裏を返せばこの夢を叶える為だったらコロコロ言ってること変えても良いし

次々にいろんなことにチャレンジできます。

このブログだって夢達成の為の一歩です。

 

みなさんも人生の一番でかい目標を立ててそれに向けていきてみたはいかがでしょうか?

 

僕はとりあえずこのブログにに夢達成の為にしたこと、したいこと、みなさんにおつたえしたいこと、などなどざっくばらん(死語かも)に書いてみようとおもいます。

 

ご拝読ありがとうございました。

ごきげんよう!