読まなくてよし、ただ、内山コーチを知ってる人には読んでほしいし、深く関わったことがある人にも読んでほしい。(解説.はじめのうちは自分を忘れないうちに書いおこうと思ってただ連連書いてたけどふと見たら知ってほしいことがあったので。)

連投のとらとです。

はじめの文で少しだけ自分の歴史のようなものを書いたのですが、あれだとテストしたらみんな満点取れてしまいそうなのでこれから、何回かに分けて自分史を書こうかと思います。とらと史を専攻される方はがんばってください。

第一回目の授業は生まれてから中学に入るまでです。

僕は1999年12月16日に神奈川のはずれで、城ヶ崎というところでお土産物屋を営んでいるところの長男と、新卒で入った会社をすぐに辞めて死んだ友達の家に居候していた母が、オーストラリアで出会い、母が言うに父に仕組まれ、僕が生まれました。

なにはともあれ写真を見たり話を聞く限り、デキてしまった我が子を母は自分の息子に溺れるが如く愛していたみたいです。

しかし、父はどうかと言うと朝早くから夜遅くまで働いていて、母とはすれ違って言ったみたいです。僕は朝に弱く夜は早く寝かされていたので父との家での思い出は家族あるまじきことに全くありません。

そんな悲しい生活に耐えかねたのか、この頃から母は僕をつれて海外に行くようになりました。
二歳からオーストラリア、シンガポール、カナダに一ヶ月単位で数回父をおいて行ってたみたいです。

前後関係は覚えていないのですが、
そんな中、僕が四歳のとき、母の子宮に腫瘍が見つかり、死ぬならオーストラリアでとのことで父をおいてオーストラリアに。その頃オーストラリアの反対側に居たイギリス人のダンという23,4の青年が母が死ぬかもしれないとのことを聞きバイクで来てくれました。反対側と言ったら日本二個分の距離なので、すごいものです。

その後母はオーストラリアで検査をしたところ悪性の腫瘍ではないことがわかり、手術をし、無事助かり、その後せっかく来てくれたダンと九ヶ月ほど過ごすことになります。

ここで出てきたダンについてお話すると、この人はイギリスの大学を出て、世界を旅していた後に僕の父になる人です。母がいないと寝れなかった僕、父でも寝かせつけられなかった僕を唯一寝かせつけられた人です。そのことがきっかけとなり、母はこの人だと決めたみたいです。

このオーストラリアでの九ヶ月はとても濃く、僕の幼少期の思い出はほとんどここです。アルファベットも知らないような子供が現地の保育園に打ち込まれたのもいい経験ですし、今でも個人的に連絡を取ってる友達も居て、その人は当時大学生だったのですが、今では三十をすぎ、結婚し、子供をもっています。とても感慨深いです。

さて、話は自分史に戻ります。ワーホリのビザが来て帰らなくてはならなくなった我々。母の中であることが芽生えます。デキ婚を仕組まれ日本においていく程の父、
自分が死にそうな時、日本2個分を走破し、会いに来てくれたイケメンな外国人の新しい彼氏。しかも息子の僕と相性バツグン。母はダンを選びました。前の文で母のクズっぷりに引きましたなどと書いていますが、この選択をしてくれた母に感謝しています。

そしてダンを日本につれて帰り、父とは離婚をし、僕は、小学校に入り、母とダンはめでたく結婚をしました。ダンは旅をしたりいろいろな本を読んだりしていたので知識が豊富で旅での面白い話だとか科学の面白い話を沢山してくれました。それに、ダンは僕が母に理不尽な暴力をした時も守ってくれたり、だめなところはちゃんと叱ってくれたりなど、僕を作ったものの半分はダンだったと言っても過言ではありません。それほど感謝しています。

小学校に入ってから僕はダンと母が共働きだったため学童保育に入れられ、友達とも遊ぶことはないまま学童にある本や漫画を読み漁ることに熱中しました。家に帰るのはいつも七時などで、そっから八時までには寝なくてはいけなかったので、ごはんを食べるのが遅かった僕は、急いでごはんを食べ寝る支度をし、寝ていました。

以前はいつも遊んでくれていたダンはこの頃から、食べるものも僕らとかえ、日本のテレビを見ることもなかったので食卓で一緒にごはんを食べることはなくなり、PC室にこもるようになりました。

三年生あたりから新しい住まいを探すためや母の買い物などに付き合わされ、僕がダンと遊べることはなく

四年生になる頃には学童を追い出され、本当の意味での一人に、このころから暇な時になにをしてたわからないのですが、バスケを女の子の友達に誘われ、はじめました。

そこのミニバスチームは拠点が隣の小学校にあり、弱いながらもとても、コーチの面々には気に入られ、唯一仲の良かった友達たちと楽しい時間を過ごしていました。男子がみんなAVを見てることをばらしてみんなに嫌われたこともあったし、みんな他の学校だったから悲しい思いをした時もあったけど、みんな優しく、みんなのことが大好きでした。。今でも大好きですし、親友だとかってに思ってます。毎年のようにやっていたバーベキューや、合宿の思い出は今でも忘れようにも忘れられません。

バスケの友達しかいなかったというのも理由があります。
それまで母に暴力の限りを振るわれていた僕は、学校で性格がねじ曲がっていっていたからです。母との口喧嘩などで鍛えられ口の立った僕は嫌いだった女の子の友達に正論だけを言って泣かせ、尚且つ悪口ではなく正論だけで泣かせていた自分に酔い、一日に一回は泣かせてたと思います。
それも六年生になるとネジ切れるほど曲がり、他の人がゲームをして授業妨害したり、悪口を言ったりハブったりして友達をいじめるて、学級を崩壊させる中、私はといえば、迷惑にならないからいいだろと授業の白昼堂々ハリーポッターを読んだり嫌いな友達に暴力を振られ、家で散々暴力を振るわれていた事と、人にやられて嫌なことをするなという正義を掲げ、おれはいつも振るわれてるから当たり前じゃないの?とふざけ倒したことを抜かし、しかもお前人にやられて嫌なことするなって習って暴力振るってるんだったらお前もやられていいだなとサイコパスみたいな事を言い、人に暴力を振るい裁判沙汰の一歩手前まで行ってしまったりしたこともありました。それでも守ってくれた父に感謝してます。

あともう一つ記憶に残ってるといえば初めて見たお父さんの涙です小学校六年生のときに一度もあったことはないおじいちゃんがイギリスで死にました。心臓発作だったみたいです。急に死んでしまったので飛行機代などは、馬鹿みたいに高かったみたいですが、そんなことは関係なく、葬式には間に合わなかったのですが、即刻イギリスに飛びました。イギリスを少しだけ楽しんだあと僕たちはおじいちゃんのお墓に行きました。
本当にイギリスって感じの町にイギリスって感じの墓で、そこの前後の記憶はないのですが、父が嗚咽を吐きながら泣きました。僕らは遠くからそんな父を見守ることしかできなかったのですが、初めて父の涙を見ました。これはとても印象的だったので書かせてください。

そんなこんなで小学校生活の後半は楽しく過ごせました。

続く。

後日加筆修正します。