だれにも本当は読んでほしくないけど本当はよんでほしいブログ

さて、第2回です。

前回までは僕の幼少期から中学に入る前までをかきました。

これは中学に入ってからのお話です。

中学校に入ってから僕は当たり前のようにバスケ部にみんなと入りました。
そして先輩、先生、と出会い、一人だけ新しい子が同い年でバスケ部に入りました。

それと同時に、小学生のままではだめだと悟った僕は、なにを血迷ったか中央委員会(代表委員的なもの)に入ります。生活指導をする委員会はあったものの、中央委員会はクラスをまとめる、良くすると言った仕事があったため(今思えば自分たちでかってに作っていたのかも)生活指導から雰囲気作りまで一手に任されました。そこに入った僕は否が応でも模範生にならなくてはならなく、その階段を上って行きました。

ですがそれまで模範生の反面生徒のような小学生だった僕は、なかなか仕事がデキず、名だけの中央委員として嫌われ、前期で解任されます。
後期になりクラスの選挙で負けた僕なのですが、中央だった子が生徒会に当選し、中央に舞い戻ります。ですが、そこでも記憶に残ることはあまりありません。

というのも、その頃は部活に熱中していたからです。
その頃の先生は神戸先生といい学校でぶっちぎりに厳しく恐いおばさまの先生だったからです。
オーストラリアで培った年上に好かれる才能を遺憾なく発揮した僕は、先生と先輩に好かれて、三年生が引退する頃に試合に出始めます。
そしてそこそこ模範生バスケもそこそこできる勉強も全く出来ないわけではない子として一年生を終わります。

そして中学生活で一番濃い学年が始まります。
二年生。まず、入ったクラスがすごく、二十人弱いた女子バレー部が八クラスもあるなか五人固まっていました。女子が群れるといいことない(偏見)上に、五人もバレー部が集まるということはなかなかクラスをよくするという仕事がある僕にはなかなか厳しいものがありました。

案の定、クラスの状態はよくなく、諦めかけていた私だったのですが、一年生の頃不登校だった子に、お前がやらなきゃだれがやるんだよ、おれがやるから邪魔だと言われ、自分に火がつきクラスを良くして行こうと決意をいだきました。

これが夏の終わり頃です。

そっからというもの、委員会に注力し、クラス、強いては学年を良くしようと奮闘しました。その中で友達を注意する中で怒り過ぎたりしてクラスの女子全員に嫌われたりもしましたが、自分のクラスを良くしようと頑張り、学年の長として泣きながら相談してくる委員会のメンバーのサポートをしました。そんな頑張りが実ってか、クラス、学年は最高のものになり、三年の体育祭などではこんな学年見たことないと校長やら年配の先生に言わしめるまでになります。

二年生で怒り過ぎ起こることの意味はなにもないと気づかせてくれ、他にも大切なことを教えてくれた先生の名前(sin)と人間の罪としての(wrath)これらを忘れれないようにとアカウント命をwrath__sinにしています。

部活のことに話を戻すと、二年のはじめの頃から僕たちは部活の先生(神戸先生)が居なくなることに気づき始めます。その頃は僕達を陸上部並に走らせたり土砂降りの中走らせ、凍えていると、そんなんで震えるなら帰れば?などと理不尽な先生が居なくなることが嬉しかったのですが、後のバカだったと気づきます。なぜなら二年のはじめに、新しくバスケを教えれる先生が赴任して来て、夏の終わりに先輩が引退したら引き継ぐというからです。先輩が引退するまで僕たちは神戸先生に理不尽なことを言われようと耐えて、楽しくバスケをしていました。ですが、終わりはくるもので、僕が最後にパスしたボールを先輩はうつことなく最後の試合が終わりました。今でも覚えています。

これが夏の終わり頃です。

それからと言うもの神戸先生は居なくなりはじめの頃こそ新しい先生になりました。
ただ、その先生は教えてくれもせず、どうすればいいんですかと聞いてもお前たちのやる気がないからだ、坊主にしろ。みたいなことをいい坊主にさせた挙句、ptaから文句を言われれば言ってないと責任逃れ。ずっと神戸先生に育てられた僕のバスケに対する熱はこっから徐々に冷めていきます。ですがそれと同時に委員会が楽しくなって来たので委員会に熱を入れ始めていきます。

色々ありながらも濃い中学生生活を送っていたのですが、最後にものすごく濃いものが
襲いかかって来ます。

ダンと母の離婚です。

これは僕の中で大きな物を占めます。
前回の父とは一緒の家にいながらもほとんど関わった記憶がなかったので大丈夫でしたが、これは確実に僕の何かを壊し、僕を閉ざしました。

前のブログで母の酒のせいだったとおもしろおかしく書いてますが、色々原因はあったと思います。

父は日本にきてから小学校低学年くらいまで一人だけ友達がいましたがそのたった一人の友達は父をおいてハワイに行ってしまいした。
それに母は夜勤、父は朝早くから夜遅くまで。ここでもスレ違いが起こり、夫婦の愛は消えました。
母と父の財布は別だったので母はたまに働き、酒毎日のようにワインを1瓶飲み、私は働いてるからと口実をつけ、家事をしませんでした。もちろん父が代わりにしてました。そして母は、飲んで帰ってこれないことは日常茶飯事、その世話をしているのは父、父はそんな母に見かねて次やったら別れるからと念を押していて、その時はもう飲まないと母は言いますが、また酒に溺れる日々。
そんな日常に終わりを迎えたのが塾に酔っ払いながら入ってきたことでした。
僕は父にこの相談をしました
そしたらもう別れるといわれました
この時ぼくは一生懸命に父に謝りました
人生の大事な十年を無駄にさせてしまったこと
辛い思いをさせてしまったこと
母の酒癖を治せなかったこと
ボロボロに泣きながらあやまりました

そしたら父もボロボロに泣きながら

「いいんだよお前があやまることなんてないよ
お前と過ごせた十年はおれの宝物だったよ」

父の涙を見たのは二回目でした。

このことで母と喧嘩することがありますが、母はお前が父にあの時密告しなかったらこんなことにはならなかった。お前のせいで別れたんだって今でも言われますが、あの言葉のおかげで自分を責めずに生きて行くことが出来ています。
母は別れた理由の一つに父が薬物をやっとことをあげていますが、母の虚言だと思いますし、一人で十年間がんばって来た父なら薬物をしていてもおかしくないですし、僕はそんな父を本当に尊敬しています。

別れたあとも僕のためだけに母が夜勤の時は家に来てくれていましたし、早いときだと6時から夜の10時まで家のローンや色々なものの為に働いていて、母が家事をしないので父が家事をし睡眠時間3時間とかとがんばっていて、駅の階段で意識を失い、睾丸を潰すほどの怪我をしたこともありました。

本当に感謝しかないです。

そして三年生になります。

この頃から心を閉じていきます。

三年生になり、部活に新しい先生が来ましたが、お前らのせいで可愛い愛娘との時間が潰れてんだぞというようなあの先生のままだったので、僕は部活に熱を注げないままでした。
委員会も、クラスも、学年もみんながしっかりしているので委員長の僕の出番はなく、
クラスでも一人になっていきます。やるせなさを感じて修学旅行の実行委員長などもしましたが、みんなが楽しめてる修学旅行は楽しめず、最後の試合に負け、チームメイトがないてる中、僕一人だけ泣けなかったことがありました。泣けなかったことのほうが悲しかったです。

それからは受験に入り、家に居場所もなかったので塾に入り浸ります。
興味のないことは全く出来ないたちだったので、大好きな数学と理科だけを勉強し、
併願も掛けてもらえなかったのでレベルの低い学校に難なく入学する資格を得ます。
合格した時の喜びも一切ありませんでした。

そして卒業式。何かを残したいと学年の指揮に立候補し何故か当選し、合唱で学年のほとんどを泣かせるも自分だけ泣けず、さらに悲しみにくれる。

そして卒業。

そして波乱の高校へ。。。